2009年11月5日、バンコクに赴任しました。2011年9月1日、東京に戻りました。2013年10月1日、福岡に移住しました。
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こちらで紹介した新大工町の風景(これを便宜的に「玉村の465」と呼びましょう)ですが、良く似た写真がネット上にありました。スイス連邦工科大学チューリヒ校図書館のサイトにパブリックドメインとして公開されているので引用しましょう。
Ans_05514-017-AL-FLスイス連邦工科大学チューリヒ校図書館 ←クリックで拡大
ETH-Bibliothek Zürich, Bildarchiv / Fotograf: Unbekannt / Ans_05514-017-AL-FL / Public Domain Mark

ここに引用した写真(これを便宜的に「Ans_05514-017-AL-FL」と呼びましょう)は、縮小かつJPEG圧縮していますが、上記図書館のサイトには、39MBの巨大なTIFFファイルも上がっています。超高解像度です。

ちなみに長崎大学古写真データベースの目録番号: 5638は、これらと非常によく似たアングルの写真です。おそらく江南信國スタジオ版と思います。しかし、残念ながら高画質版がアップされていない。長崎大学附属図書館も、収蔵品をこういった形でパブリックドメインとして公開してくれると、長崎における古写真研究が進むと思うんだけどね・・・。

さて、興味のある方は、「玉村の465」と「Ans_05514-017-AL-FL」をよ~く見比べてください。いろいろ分かりますよ。で、訂正はですね、こちらのページでは、「水道栓が、無いように見えるので、明治24年以前の撮影かも」みたいなことを書いたんですが、これを訂正。「玉村の465」では、確かに水道栓が無いように見えるのですが、これはおそらく看板に隠れているのです。
k022_201702230920123d7.jpg
「玉村の465」の部分拡大。
水道栓は、たぶんこの看板の裏にあるものと思われます。

「Ans_05514-017-AL-FL」では、この部分に・・・
Ans_05514-017-AL-FLスイス連邦工科大学チューリヒ校図書館
しっかり、水道栓があります。

で、「玉村の465」と「Ans_05514-017-AL-FL」は、どっちが年代的に古いか?というと、これはもう、写真をよく見ればすぐに分かります。
 「玉村の465」 → 道路が石畳舗装されている
 「Ans_05514-017-AL-FL」 →道路が舗装されていない
明らかです。「Ans_05514-017-AL-FL」の方が古いんです。水道栓のある「Ans_05514-017-AL-FL」は、明治24年以降の撮影。「玉村の465」は、さらに「Ans_05514-017-AL-FL」以降の撮影。はい、ここに訂正したいと思います。

それと、大変興味深いのが、これ、
Ans_05514-017-AL-FL.jpg
「Ans_05514-017-AL-FL」では、大手橋の手前に何やら小屋があるんですよ。係員らしき人もいる。まさか橋の通行料を徴取してたわけじゃないよね???

さて、「玉村の465」と「Ans_05514-017-AL-FL」ですが、見比べると大変面白いです。建物が結構変わっているので、これら2枚には年単位の時間差があることが推測されます。また、不可解なのが、電柱と街路灯の位置です。よ~く見比べてください。どうしてこんなことになってるんでしょう??? 残念ながら私には明治期の新大工町の風景の変遷を解説するほどの知識はありません。いつか勉強してみたいなぁ・・・・。
長崎の「Hシリーズ」はこれまでに、H13. SHIOMISAKI, MOGI. と H14. SHIOMISAKI, MOGI. (←クリックでそれぞれのエントリーに飛びます)の2枚を取り上げたのですが、これらはいずれも長崎大学の古写真データベースには収録されていないと思います。長崎大学古写真データベースには8枚の長崎の「Hシリーズ」が収録されているようです。うち、一番若い番号はH8、一番大きな番号はH76。これはどう考えたら良いのでしょうか? 普通なら、番号は連番になっていると考えますよね? で、長崎大学に収蔵されているのはわずか8枚です。つまり、長崎大学に収蔵されていない長崎の「Hシリーズ」は、まだまだたくさんあると考えるのが自然と思います。

もちろん、世界には長崎大学以外にも明治期の日本の古写真を収蔵している図書館や美術館は多くあります。最近では、収蔵品をインターネットで公開している所も増えてきました。それらの情報をすべて集めたとして、長崎の「Hシリーズ」は一体何枚くらい見つかるのでしょうか? 

これまた感覚的な話で恐縮なんですが、「Hシリーズ」に限らず、長崎における明治期のお土産写真は、未知の物の方が既知の物より多いのではないでしょうか??? まだまだ見たことのない長崎のお土産写真が、たくさんあるように思います。果たして、長崎の「Hシリーズ」や「Gシリーズ」の全貌が明らかになる日は来るのでしょうか?

さて、これも長崎大学古写真データベースに入ってない(と思う)1枚。
k067 H4 高麗橋 ←クリックで拡大
H4. NAKAJIMA-GAWA, NAGASAKI.」。残念ながら鶏卵紙プリントではなく、それをコピーした絵葉書です。
この石橋は高麗橋ですね。以前アップしたNAKASIMA TEA HOUSE 226(←クリックでそのエントリーに飛びます)と比較してください。ね?一目瞭然。特徴的な松の木が同じです。「NAKASIMA TEA HOUSE 226」は、高麗橋の上から上流の阿弥陀橋を撮った物でした。そして、今回のH4が高麗橋のたもとです。

大きな石灯籠が見えますが、これは昭和52年の時点でこの場所に存在します**。高麗橋は、昭和60年に解体、平成5年に移築とのこと。この石灯籠も一緒に移築されたかな?

  森望(2014)「明治の長崎撮影紀行」、長崎文献社、P.120.
**宮田安(1977)「中島川遠目鏡」、長崎文献社、P.27の写真.
今まで書かなかったんで、勘違いしてる人がいるかもしれませんので。これまで紹介してきた明治期の鶏卵紙プリントって、これくらいの大きさなんですよ、
IMG_2566.jpg
A4と同じくらいです。この当時はプリントのサイズとネガのサイズが同じです。当時のガラス板の粒状性がどれくらいだったのか?知りませんが、何しろこのサイズの巨大なネガですから、オリジナルプリントは極めて解像度が高いんです。

さて、かなり以前のこちらの続き。あ、もう一回同じ写真を上げておきましょう。
k063ed.jpg ←クリックで拡大
橋の下で「師匠と弟子」(仮)は、一体何をやっているんだろうか? という疑問は依然解けません。って言うか、あんまり解く気もないんだけどね ^_^;) この写真ね、今見直すと、やっぱ特異ですわ。この人物の配し方は、他に無いように思います。それに極めて自然で精緻な彩色。非常に質が高いと思いますね。長崎の「800番台シリーズ」って、他にあるんだろうか? もしあるなら、ぜひ見てみたい。

で、絵柄なんですけど、この写真、これだけ見ると、何やら相当田舎に見えますよね? かなり山間の渓谷のようにも見えませんか? この橋、大手橋は今や新大工町の商店街入口なんですが、この「師匠と弟子」(仮)が作業(?)をしてた頃のこの橋の上の風景が気になりません?

では、橋の上に登ってみましょう。
k022ed.jpg
ありゃ! 渓谷どころか、結構人通りの多い街中じゃん! これが、当時の大手橋周辺の風景。画質が限界なので、引いてみましょう。

k022.jpg ←クリックで拡大
これが全体像。真ん中に小さく大手橋が写っています。そこを拡大したのが、一つ上の写真というわけ。この写真を撮った人の左後ろに諏訪神社の鳥居があります。この写真の奥、大手橋を渡った向こうが今の新大工町の商店街ですよ。

いや~、この写真は面白いね。道路は石畳舗装です。人力車の便を考えてのことでしょうか。良く見てもかなり路面が平らなんだけど、これって、下の地面を平らにして同じ厚さの石を敷き詰めるの? だとしたら同じ厚さの石を量産するのって大変な作業だよね? それとも地面は適当にならして地面の凸凹に合わせて上の石の厚さを調整するの??? いずれにしても大変な作業だと思いますね・・・。現在の途上国の道路工事は、これを見習ってほしいよ ^_^;)

新大工町って、大工が集まって住んだ町って意味でしょ? 右の方には、何やら大工関連道具を並べている店のようにも見えます。

キャプションは「No. 465 MAIN ST. NAGASAKI.」。玉村康三郎スタジオの作品と思われれます。長崎大学のデータベースには目録番号5638(←クリックでデータベースに飛びます)で良く似た写真が登録されています。長崎大学の目録番号5638に見られる水道栓が、上写真では無いように見えるので、明治24年以前の撮影かもしれません。

この通りを当時の長崎の「メイン・ストリート」と言って良いのかどうか?良く分かりませんが、いずれにしてもそこそこ開けた人通りの多い通りだったことが分かります。そんな場所の橋の下で「師匠と弟子」(仮)は、一体何やってたんだろう・・・・・・? (結局、ココに戻ってくる ^_^;)
長崎の「Jシリーズ」は、過去に『J63. Tea-house at suwa park.』(←クリックでエントリーに飛びます)を紹介しました。このエントリーでは、以下のように書きました。

“頭がJで始まる長崎のお土産写真は、確認枚数が少なく、本当に“シリーズ”を形成しているのかどうか?良く分かりません。長崎大学古写真データベースには、他に『J72. bronze-horse belonging to Suwa temple, Nagasaki.』(←クリックでデータベースに飛びます、あれ!?こっちはキャプションの頭が大文字じゃない・・・)があるのみと思います。”

長崎大学のJ.72は、高画質版が上がってないのですが、最近になってJ.72の高画質の物をネット上で見つけたので上げておきます。J. Paul Getty Museumのこちらのページ(←クリックで飛びます)です。パブリックドメインだそうですので、下に引用します。
188547011200.jpg ←クリックで拡大
Attributed to Kusakabe Kimbei (Japanese, 1841 - 1934, active 1880s - about 1912)
Bronze Horse Belonging to Suva Temple, Nagasaki, 1870s - 1890s, Hand-colored albumen silver print
22.1 x 27.1 cm (8 11/16 x 10 11/16 in.)
The J. Paul Getty Museum, Los Angeles

上記ページには、7512×6066ピクセルの巨大な高画質版も上がっているので、興味のある人はダウンロードしてみてください。長崎大学のデータベースには、高画質版がアップされていないので分からなかったのですが、この看板、
18854701ed.jpg ←クリックで拡大
馬に乗るなって書いてんのかよっ! ってことは、乗る人がいたんでしょうね ^_^;) ちなみにこのお馬さん、第二次大戦時の金属供出でお国のために鋳つぶされたんだそうな(涙) ついでに言うと、この男は、オカマっぽい化粧をしているのではなく、彩色職人が勝手に色を付けたものです。

さて、私はこの写真の絵柄について、気の利いた解説をするほどの知識はありません。

私がこれまでに確認できた長崎の「Jシリーズ」は、前述のJ63とこのJ72のみです。果たして、長崎の「Jシリーズ」というシリーズは存在するのでしょうか???

なお、上に引用したJ. Paul Getty Museumのキャプションでは、“Attributed to Kusakabe Kimbei”と書かれていますが、今のところこの写真が、日下部金兵衛スタジオの作品であるという有力な証拠は無いと思います(金兵衛スタジオで売られていた可能性は十分あると思いますが)。

#長崎大学古写真データベースも、収蔵品の高画質スキャンをパブリックドメインとして公開してくれたら、長崎の古写真研究が進むと思うんだけどね・・・。
強いて言えばこちらの続きですかね。
長崎の「イタリックGシリーズ」の年代推定の手掛かりを得たような気がすると同時に、非常に興味深い事を発見しました。あ、今回、ちょっと長いよ。
k054.jpg
 ↑ クリックで拡大
キャプションは『G89. TEMPLE, NAGASAKI.』。

長崎の「イタリックGシリーズ」です。この写真、入手してからしばらくほったらかしており、場所の特定作業もしていませんでした。最近になって改めて調べてみたのですが、これは長崎の本蓮寺ですね。

この写真がなぜ本蓮寺と分かったかというと、長崎大学古写真データベースに良く似た写真があったから。目録番号3870(←クリックでデータベースに飛びます)です。上のG89の方が若干望遠ですが、間違いなく同じ場所です。で、長崎大学の3870は、データベースの解説によると、清正公堂神殿の形態から明治23年以前の撮影だそうです。上のG89の清正公堂神殿も長崎大学の3870と全く同じ形式ですから、上のG89も明治23年以前の撮影ということになります(この辺、長崎大学の解説を参照して下さい)。

そっか、長崎の「イタリックGシリーズ」は、明治23年以前の撮影か・・・。長崎大学の解説に従うなら、少なくともG89は、明治23年以前の撮影、と言って良さそうですね。

ただですね・・・それより気になったのはですね・・・G89と長崎大学の3870は、あまりにも良く似ているんです。一例として部分拡大を比較しましょう。
プレゼンテーション111
左: G89の拡大
右: 長崎大学の3870を画面キャプチャで拡大
 *彩色に惑わされるので、モノトーンに変換しています

植物の葉っぱの状態がそっくりです。左側に縦に走る白は、手前の墓石ですが、この墓石と奥の玉石が埋め込まれた塀の位置関係なんか完全に一致します。一回三脚をたたんじゃうと、これほど同じアングルで写真を撮るのは困難じゃないかなぁ。つまり、G89と長崎大学の3870は、バージョン違い―つまり、同じカメラからほぼ同時に撮られた2枚の写真―ではないか? と思うのです。 

さらにですね、
プレゼンテーション
左: G89の拡大
右: 長崎大学の3870を画面キャプチャで拡大
 *彩色に惑わされるので、モノトーンに変換しています

位牌堂の扉の開き方も同じ。
更に言うなら、G89の左下に見られる斜めの影の形が全く同じ。
これほど似た写真が、日を違えて撮れるだろうか??? 私の感覚では、これら2枚はバージョン違いだという気が強くします。

ただし、両者は画角が違います。感覚的にはG89が50mmで、長崎大学の3870が35mmくらい? 正確には現場を見てみないと何とも言えませんが。あ、今現場に行っても上写真に写ってるモノは、もう何も無いのか -_-;) 私の印象としてはですね、全く根拠のない印象だけなんですけど、G89と長崎大学の3870は、同じ三脚に焦点距離の違うカメラを付け替えて撮った写真ではないか? という気がするんですよ。G89には周辺部に糸巻きひずみが出てますよね? でも長崎大学の3870には、それがあまり無い。これら2枚は、ほぼ完ぺきに同じ場所から撮られていますが、レンズの性能が違うように思います。

もっとも、私はこの当時のカメラ技術について何も知らないので ― この頃のカメラってレンズ外れないよね? 写真師が焦点距離の異なる2台のカメラを持ち出してロケすることなんてあったんだろうか? ― ホントに印象だけなんですけど。

長崎大学の3870は、キャプションが「48 / BURIAL PLACE, NAGASAKI.」。つまり、長崎の「数字とキャプションが分離シリーズ」です。ここでは暫定的に、バージョン違いの写真が、長崎の「イタリックGシリーズ」と「数字とキャプションが分離シリーズ」にまたがっている、と考えたいと思います。

なお、上のG89はフルサイズです。

あ、ついでに、長崎大学の解説に「まだ髷を結っているので、むしろ明治初年」とありますが、これはあまりにも短絡的過ぎます (もしそうだとしたら、髷を結った人物が出てくる長崎のAもBもGもHも全部明治初年となってしまいます)。

#完全に自信があるわけではないので、ツッコミは大歓迎です、というか、お願いします ^_^;)

<1歳児語録>
●「ななな」 = バナナ
●「おににに」 = おにぎり
k100jpg.jpg
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キャプションは、「DESHIMA, NAGASAKI. 」なんですが、画面下やや左に「16. 」と白抜き数字があるんです。よって、これは長崎の「数字とキャプションが分離シリーズ」です。この写真は、長崎大学古写真データベースにも目録番号3859(←クリックでデータベースに飛びます)で収蔵されています。で、気が付きました。長崎大学に収蔵の写真には、「16. 」の数字が無いのです! ということはですね、黒地白抜き文字のキャプションを入れた写真館と白抜き数字を記入した写真館は別、という可能性がありますね。

そう思って、この写真と長崎大学に収蔵の物とを比べて見ると、この写真は明らかに解像度が劣ります。
k100jpged.jpg
600 dpiスキャンの等倍切り出し、ただしJPEG。
#白旗ではなくて、タオルを干してるんでしょうね・・・。左の●は、煙突用の穴でしょうか???

って、ことは白抜き数字は、コピー写真に後から入れられたという可能性がありますね・・・。もしかすると、長崎の「数字とキャプションが分離シリーズ」は、全てコピー写真なのでしょうか??? イヤ、でも「91 / INASA, NAGASAKI. 」(←クリックで、そのエントリーに飛びます)なんかは、かなり解像度高いんだよね・・・・・・もっとも、長崎の「数字とキャプションが分離シリーズ」における白抜き数字は、書体や記入場所がまちまちなので、もしかしたら長崎の「数字とキャプションが分離シリーズ」は、複数の写真館から個別に発売されていたのかもしれませんね。う~ん、依然として何とも悩ましい長崎の「数字とキャプションが分離シリーズ」です。

絵柄に付いては、長崎大学古写真データベースの解説を見て下さい。明治35年の写真とのこと。
s-l1600 (1)
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非常に印象的な写真ですね。長崎ベルビューホテル。文久3年(1863)頃の開業といわれています。日本最古のホテルのうちの1つ。場所は今のANAクラウンプラザホテル、グラバー園の入口のとこですね。

キャプションは、「A 150 BELLEVUE HOTEL OURA AT NAGASAKI. 」。「長崎のAシリーズ」です。このアングルで撮られた写真はいくつか残っているのですが、この写真はおそらくそれらの中でも比較的新しい時代の物と思います。

img074.jpg
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これらの人物は、ホテルのスタッフでしょうか? 白いコックコートはコックでしょうね。手前の和装の男は??? いずれにしても全員ポーズをとっています。

非常に印象的な写真ではあるんですが、歴史資料的には面白みに欠ける写真か。

<1歳児語録>
●「うーめんめん」 = 「バス」
●「ぷーぷーぱー」 = 「しゅっしゅっぽ」 = 「蒸気機関車」
●「じぇんじぇん」 = 「新幹線」
●「ぱぱ」 = 「パパの通勤電車」
●「ちーちー」 = 「飛行機」
これまでの大浦バンドシリーズをまとめると・・・、
●『No. 212. Nagasaki, Bund.』 と 『BUND, NAGASAKI.』は、同じカメラでほぼ同時に撮影されたバージョン違い。撮影年代は、電線があって、長崎ホテルが無いので、明治26年~31年の間。
●『G 50. BUND, NAGASAKI.』は、電灯線が無いようにも見えるので、明治26年以前かも?

さて、今回もバージョン違いではなく。単なる同アングルです。
20160822122730.jpg
 ↑
クリックで拡大

いや、正確には「同アングル」ではなく、「似たアングル」と言うべきですね。これまでの3枚よりも、もう少し道路沿いにさがった位置(道路沿いにより北東側)、かつ海寄りから撮られています。一見して思うのは、画面ど真ん中の街路樹じゃないですか? 見事に画面が真っ二つです。私の感覚からいうと、この構図が良いとは全く思えないんですけどねぇ・・・。どうしてもう数歩前に出て、街路樹を避けなかったんだろう? それともこの街路樹に何らかの意図があるんだろうか??? 分からん -_-;) この写真はおそらく明治20年代前半ですので(下記参照)、まだアマチュアカメラマンは、ほとんどいない時代です。って、ことは、プロの写真師の仕事だと思うんだけど、意味不明な構図だなぁ・・・。

それから、この写真が、これまでの3枚とは印象が違うのは、カメラの立ち位置が若干違うだけでなく、「BUND NGASAKI」の未彩色版と比較するとですね・・・
20160822123007_20161006122912bc8.jpg
 ↑
クリックで拡大  赤丸が同じ門と思います。

分かりますかね? 「BUND NGASAKI」に見られる2階建ての洋館が丸っきり違う建物です。今回の写真では、もしかすると平屋かもしれません。「BUND NGASAKI」に見られる2階建ての洋館は、長崎大学データベースの解説によると、住所は大浦4番で、現ホテルニュータンダ、慶応2年(1866)に木造で建築され、明治20年代中期にこの建物に建て替わったそうです。ということは、今回の写真は、明治20年代中期にこの建物が建て替わる前、という可能性が高そうですね。

また、今回の写真では、建物沿いの街路樹が、明らかに低いので、『No. 212. Nagasaki, Bund.』 や 『BUND, NAGASAKI.』に比べると、年単位で古い可能性が高いと思います。なお、建物側の電柱はありませんが、海側の電柱は手前の街路樹と被っているので、あるのかないのか?良く分かりません。

さらに、画面左の通行人が派手にブレているので、おそらくは湿板だと思います。やっぱりこの写真は、古いんでしょうね。

それから、この写真はですね・・・
 ・明らかに解像度が低い
 ・キャプションが無い
 ・サイズが約13cm×9cm程度と小さい (これまでの3枚はいずれも約27cm×21cmのフルサイズ)
という特徴があります。この3点を備えた写真は、コピーの可能性があります。コピーといっても、当時スキャナーは無いので、写真を写真に撮るんです。今回の物は、そうやって作られたコピー写真のような気がしますね・・・。より鮮明でキャプションの付いた物が、今後発見される可能性があると思います。

<1歳児語録>
●「えみっ!」 = 「エビ」
●「えみっ!」 = 「セミ」
s-l1600_201612211032085f0.jpg
 ↑クリックで拡大
さて、この写真は、本日、長崎市内で撮った物。庭の松(?)の枝ぶりが見事ですね~。・・・・・・・・・というのはウソです。

キャプションは、「91 / INASA, NAGASAKI. 」。そう、長崎の「数字とキャプションが分離シリーズ」です。つまり、明治中期の写真です。意外だと思いません? 街中の風景は明治中期から大きく変わりましたが、日本家屋を単独でとらえると、明治中期も平成の今もそんなに変わってないんですよ。

私は、この写真を見た時、大変な違和感を覚えました。しばらく考えたのですが、私が違和感を覚えた理由と、現在の日本家屋とそんなに変わらないな、という印象を持つ理由はおそらく一緒です。それは2階のガラス窓。私は、明治中期の写真をそこそこ見てきたのですが、日本家屋にガラス窓というのはかなり珍しいと思います。

っていうかさ、オレが生まれたのは昭和の中期だけど、じいちゃんの家にガラス窓はまだなかったぞ! ^_^;)

ネット上をザッと検索してみると、日本国内で板ガラスの製造に成功するのは明治42年です。つまり、この写真の窓ガラスのガラスは輸入物ということになります。ということは、この家は当時の庶民の家ではなく、大金持ちの家ということでしょう。明治中期に稲佐に住んでいた大金持ちの日本人。長崎の郷土史に詳しい人だったら、もしかして家主が特定できるかな???

あ、それから、画面左側を縦に走っている雨どいは、家の中に引き込まれているように見えます。当時から雨水を利用してたのかね?

非常に地味な写真ではあるんですが、歴史資料的には極めて面白い写真です。

IMG_2161.jpg
イヤ、今日、稲佐方面に行ったのはホントなんだけどね ^_^;)
k031jpg.jpg
 ↑ クリックで拡大
この写真は無条件に良いですね! 長崎市の観光宣伝に使えるんじゃない? 知らない人が見た、コレ、日本とは思わないですよね? 日本らしさがどこにも無いですよ、この街。明治中期の大浦の海岸通りはこんな風景だったんですよ。

中央やや左に大浦天主堂が見えてます! 当時は海べたから大浦天主堂が見えたんですね・・・。ってことは、信者は海を見ながらお祈りしてたんだね。中央やや右にはグラバー邸とよんご松も見えています。

左側の2階建て(当時の大浦4番、現ホテルニュータンダ)が、明治20年代中期の築。画面右の方に明治31年築の長崎ホテルはまだ無いので、この写真は明治20年代後半ということでしょう。

キャプションは・・・出たよ・・・また「BUND, NAGASAKI.」だよ・・・ ^_^;) これまで、「BUND, NAGASAKI.」は、長崎の「数字とキャプションが分離シリーズ」に『12.』と『13.』があったんですが、
↓クリックでそれぞれのエントリーに飛びます
  12. / BUND, NAGASAKI. (彩色版)
  12. / BUND, NAGASAKI. (未彩色版)
  13. / BUND, NAGASAKI.

この写真に数字は無いですね・・・同じキャプションで、書体も極めて近い。ということは、これら3枚は同じ写真館から発売されていたと考えたいんですがね・・・・・・。何とも悩ましい「BUND NAGASAKI」シリーズです。

あ、この写真、“日本らしさがどこにも無い”と書きましたが、よく見たらありました。
k031jpged.jpg
 ↑ クリックで拡大して見て下さい
画面ほぼ中央ちょっと上、鳥居があるじゃん! この鳥居、今でもあるかな?