2009年11月5日、バンコクに赴任しました。2011年9月1日、東京に戻りました。2013年10月1日、福岡に移住しました。
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今日は、仕事で諫早へ。
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あで??? 諫早駅が無いっ!??? ジジ、ババ、もう諫早駅にミスタードーナツは無いよ! どうも駅舎を新築している模様。いや~、降りた駅間違ったかと思ってアセったよ・・・。

昼飯はちゃんぽんだな。
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駅から歩いて数分。
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ちゃんぽん。美味い。スープが個人的にはちょっと塩辛めなのだけど、十分旨い。福岡にこの店があったら、頻繁に行きたいと思う。トータルとして十分美味いのだ。それを踏まえた上で。

私が考えるちゃんぽんとは、以下に分類される、
 I 類・・・麺は唐灰汁麺、麺を煮込む
 II 類・・・麺は唐灰汁麺ではないが、麺を煮込む
 III 類・・・麺は唐灰汁麺でなく、麺を煮込まない
言うまでもなく、I 類が私が考える長崎ちゃんぽんである。一番美味い。しかし、I 類ちゃんぽんは、長崎市内もしくは東京都内でなければ食えまい。福岡市内で I 類ちゃんぽんを出す店って・・・あるんだろうか??? 東京なら、私が第二期東京時代に通った「長崎飯店・虎ノ門店」は I 類だった。

世間には、ちゃんぽんと称しつつ、II 類やIII 類のちゃんぽんが圧倒的に多いのだ。リンガーハットは II 類だ。 井手ちゃんぽんは III類 だ。 もちろん、私はそれらを否定はしない。 むしろ好きだ。だからリンガーハットや井手ちゃんぽんにも良く行く。美味い。十分美味い。しかし、それらは「ちゃんぽん」として美味いのであって、「長崎ちゃんぽん」ではないと、私は思う。

「ちゃんぽん」は、全国的に知られた料理だ。しかし、「長崎ちゃんぽん」は、全国的には無名に等しいのではないか?

例えば東京で、
 「この店、麺を煮込んで無いじゃん?」 などと言うと、大抵は同僚に、
 「えっ? 麺を煮込んだら伸びちゃうんじゃないの???」
と、言われる。 要は、「長崎ちゃんぽん」の料理法すら、全国的にはあまり知られていないのだ。

ましてや唐灰汁麺など知っているのは、東京ではよほどのちゃんぽんマニアに限られる。

重ねて言うが、ちょっと具材の多いラーメンをちゃんぽん(つまりIII 類)と称して出す店を、私は全く否定しない。美味ければそれで良し。

しかし、唐灰汁麺の独特の舌触りや歯ごたえと風味は他にない。また、唐灰汁麺だからこそ、麺を煮込んで更に美味い。これこそが「長崎ちゃんぽん」の根幹ではあるまいか? もしそうであるなら、長崎市内では全く当たり前の「長崎ちゃんぽん」も、全国的にはまだまだ全く無名と言って差し支えなかろう。

唐灰汁麺を使って、麺を煮込む「長崎ちゃんぽん」の美味さは、まだまだ全く全国に知られていないと思いますね。

さて、家族へのお土産は・・・
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諫早駅で買ったこのお菓子。
電車が好きな4歳児を思って、あんまり深く考えずに買ったんだけど・・・「50ルクス」って何だよ? どれくらいの明るさなんだ??? ありゃ、良くみたら「50ルクス」じゃなくて、「50クルス」じゃん! いよいよ分からん -_-;)  「クルス」って何だ???  このお菓子、一口噛んで、ショウガの風味が効いてますね。面白い味です。悪くない。どちらかというと、私は紅茶やコーヒーよりも日本茶が欲しくなりますね。家人にも好評でした。こういったお菓子を美味しいお茶と共に食べる時間が欲しいものです。

ただし、4歳児は1枚の半分も食わず ^_^;) たぶんショウガの風味が気に入らなかったんだね。しかしっ! 1歳児は、ばくばく食ったぞ!!!
最後に、上野彦馬について、ちょこっとお勉強しておこう。
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とりあえず、こんなもんでよろしいか?左から、
 ①馬場章(2006)『上野彦馬歴史写真集成』、渡辺出版。
 ②鈴木八郎他監修(1975)『写真の開祖上野彦馬 : 写真にみる幕末・明治』、産業能率短期大学出版部。
 ③上野一郎・小沢健志 (監修)(2012)『レンズが撮らえた幕末の写真師 上野彦馬の世界』、山川出版社。

え~っと、これら3冊は、上野彦馬のお勉強を始めるには必読です。というか、一般的に手に入りやすい基本資料と言っても良いかもしれません。以下、それを踏まえた上で。

・・・・・・結論を言うと、何が上野彦馬の写真か分からんのだ。これらの本のいずれを読んでも、収録された写真を上野彦馬撮影と判断した根拠が書かれていないのだ。

それで良いのか?

自明の理であれば、わざわざその根拠を書く必要は無かろう。しかし、これらに収録された上野彦馬撮影とされる写真にはかなり疑問があるぞ? 

例えば、①には、序文で“私たちは、写真を集める段階で、オリジナルプリントかそれに近い作品の収集につとめた”、“現在写真を収蔵されている方々がその写真を収蔵するにいたった経緯が明白な写真を中心に収集した”と書かれている。そして、この本には、長崎の「800番台シリーズ」が1枚と「Aシリーズ」が5枚収録されているのだ。これらは本当に上野彦馬の撮影なのか??? この本は、掲載した写真の収蔵先をちゃんと明記してくれているからありがたい。で、5枚の「Aシリーズ」の収蔵先は・・・あれ?長崎大学附属図書館じゃん! 長崎大学古写真データベースでは、これら5枚は「撮影者未詳」となっている。ということは、この本の著者は、長崎大学附属図書館の知らない何らかの情報を得ていて、これら5枚を上野彦馬の撮影と判断したのだろうか? だったら、その理由、これら5枚を上野彦馬の撮影と判断した、その理由を教えてほしい。

「Aシリーズ」の中の5枚だけが上野彦馬の撮影というのもヘンな話でしょ? であれば、「Aシリーズ」は、全て上野彦馬の撮影なの??? この辺の解説は、全く無い。

②には長崎の「イタリックGシリーズ」の1枚が収録されている。「イタリックGシリーズ」も上野彦馬の撮影なのか???

③は、比較的新しいので、(私の知識では)それほど大きな疑問は無いのだけれど、やはり収録写真を上野彦馬の撮影と判断した理由が全く書かれていないのが残念。来歴が由緒正しいので間違いない、ということであれば、その旨書いてほしいのだ。そうでないと、要らぬ疑念を持たれる可能性がある。例えば、P166の「異人車上通行の図」(②にも収録されている)。これって、ものすごい唐突なんだけど、ホントに上野彦馬の撮影なの? ホントに明治10年頃? 撮影場所の判明していない上野彦馬の写真って他にある??? (ちなみに「異人車上通行の図」とは、コレです(←クリックで、収蔵先である長崎歴史文化博物館のサイトに飛びます))

上野彦馬といえば、長崎出身の日本における正に“写真の開祖”です。意外な事に、上野彦馬の作品の全容というのが分かってないのです。いや、もしかしたら、分かっている人は分かっているのかもしれないけど、一般に入手可能な文献では、それが判然としない。

それで良いのか?

権威ある単行本に、「長崎のAシリーズ」が上野彦馬の作品として掲載されていたら、多くの人は「へぇ~、そうなんだ」と思ってしまう。そうすると、「長崎のAシリーズ」の撮影者が誰か? について疑問を持つことがなくなる。要するに誤った情報は、研究の機会を奪ってしまうのだ。

私は、上野彦馬の作品自体にそれほど興味があるわけではないのです。しかし、上野彦馬の作品の精査というのをぜひ、どこかでやってもらいたい。その際、既知の情報にとらわれずに0から精査するつもりでやってもらいたい。上野彦馬の作品を精査すると、これまで上野彦馬の作品、とされていた物の中から、実はそうではなかった、という物が必ず出てくるはずです。そうすると、では、この写真は誰の作品だろう? という方向に研究が進むはずです。要するに上野彦馬の作品精査は、長崎の古写真研究のレベルを底上げすると思うのです。

で、これがやれるのは、来歴がはっきりしている上野彦馬の作品が多く残っている長崎で、だろう。

古写真研究においては、「東京/横浜」と「長崎」とでは、今や大きな差が出ていると思います。

お土産写真の最大手の1つである日下部金兵衛スタジオですら、昭和の中頃には完全に忘れ去られた存在でした。その後、金兵衛スタジオをはじめとする東京/横浜の写真館について本格的に研究が始まるのは、昭和の末から平成以降です。今では、東京/横浜の写真館については、かなりの事が分かってきましたが、まだまだ研究途上といって良いでしょう。

一方、長崎の写真館については、上野彦馬を除くとほとんど何も分かっていない状況です。長崎大学古写真データベースには、「撮影者から探す」(←クリックでデータベースに飛びます)という項目がありますが、長崎の写真師は、上野彦馬だけです。上野彦馬を生んだ長崎には、彦馬の弟子を含めて多くの写真館がありました。これら多くの長崎の写真館が、長崎の風景写真を残していないとは思えないのです。現存する長崎のお土産写真の全てを東京/横浜の写真館が出張撮影していたと考えるのは不自然でしょう。

長崎では上野彦馬の存在があまりに大きいため、他の写真館にまで目が向いていないという一面もあるかもしれません。今後の、長崎における古写真研究に期待したいところです。

斎藤多喜夫(2004)『幕末明治横浜写真物語』、吉川弘文館。
長崎の気になる写真館・その4。
清河武安は、長崎県生まれ、上野彦馬に師事、明治25年に乾板修正液で特許取得、のちヨーロッパで写真術を研鑽、滞在10年。この時代、ヨーロッパに10年も留学してたってのもスゴいよね。下写真(裏面)を見たらわかる通り、明治14年の第2回、23年の第3回内国勧業博覧会で賞を取っています。

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風頭公園から撮った風景ですかね? いや、もっと麓の方から? この写真、分かる人には、年代が分かるかもしれませんね。石橋は、左から一覧橋、古町橋、編傘橋、大出橋、桃渓橋。しっかし、まぁ、山の上まで良く耕してますねぇ・・・。諏訪神社の周囲にだけ森が残されたのが良く分かります。

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住所は本古川町の6番。

この清河写真館は一例ですけど、上野彦馬を生んだ長崎には、明治中期には多くの写真館がありました。それらの写真館が撮った(であろう)風景写真については、ほとんど何も分かっていません。


本古川町の6番とは、現在ではこの辺ですね。

 東京都写真美術館(監修)(2005)『日本の写真家―近代写真史を彩った人と伝記・作品集目録』, 日外アソシエーツ.
長崎の気になる写真館・その3。
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この写真は、明治32年に雲仙温泉を旅行したドイツ人の個人アルバムに収められていた物(部分拡大)。明治32年という、アマチュア写真の黎明期の写真であること、また撮影年号が明らかになっていることから、大変貴重なアルバムです。場所は雲仙温泉の小地獄。画面ほぼ中央に更地がありますが、ここは谷を埋め立てた場所。既に草は生えていますが、まぁ草なんて一夏で生えるから、埋め立て完了後数年以内といったところでしょうか。で、見たところ、この埋立地に最初にできた建物が赤矢印のようですね。

このアルバムには、ドイツ語の手書きキャプションが付いており、それによると、赤矢印は「日本人の写真館」。何と!明治32年の段階で、島原半島のこの山奥に既に写真館があったのですよ!!! オドロキじゃないですか??? ということは、この写真館は、当然雲仙温泉の風景を多く撮影しているはずです。しかしながら、この写真館については、全く情報がありません。というか、このアルバムの発見によって、明治32年の小地獄に写真館が存在した、という事実が判明しました。

この写真は、雲仙温泉初の西洋人向けホテルである下田ホテルの客室から撮影されています。で、この「日本人の写真館」は、下田ホテルに宿泊する外国人が顧客であったのだろうと想像されますが、雲仙温泉に写真館があったからには、当然雲仙温泉の風景も撮っていると思うんですよね・・・・・・。また、この写真館の写真が発掘されれば、下田ホテルの内部の様子が明らかになる可能性もありますね。ただ、この辺の研究は、全くこれから。誰かやりません?

地元の方に伺ったところ、白矢印が現在でも営業している民宿丸登屋。青〇が現在の小地獄温泉館です。こういう写真を眺めながら、丸登屋に泊まったり、小地獄温泉館の湯に浸かったりしつつ、この辺りが西洋人であふれてた時代に思いを馳せる・・・・・・なんてのは、明治~昭和初期に西洋人で賑わった雲仙温泉ならではの楽しみ方だと思いますよ。
長崎の気になる写真館・その2。
中島寛道(なかじまひろみち)とは、福井県生まれ、上野彦馬に師事、明治3年に熊本で写真館開業、明治15年に島原に移転、英・仏・蘭・露の各国語に堪能。“雲仙における写真の元祖は、島原の中島氏である。雲仙に外人が雲集するけれども、風景を知らしむるの機関無きを遺憾として、初めて風景写真を発行して外人の便宜を図り、かつ雲仙の風景を知らしむることに尽くしたのは氏である※※。要するに中島写真館が、外国人向けに雲仙の写真を売っていたことは、間違いないと思われるのです。しかしながら、中島写真館が外国人向けに発行した風景写真というのは、1枚も確認されていません。

これはどういうことでしょうか? 中島写真館の写真はどこかに眠っているのでしょうか? それとも既に確認されている雲仙の写真の中に中島写真館の作品が紛れているのでしょうか??? (イヤ、明治中期の雲仙のお土産写真ってほとんど発掘されてないんですよね・・・)

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中島写真館の広告、明治45年※※

●中島写真館の作品・その1
中島写真館が作成したアルバムは、長崎歴史文化博物館に2冊収蔵されています。普賢岳の製氷所の写真は、このアルバムでしか見られないと思います。また、明治39年に焼失した下田ホテルが写っている写真もあり大変貴重な記録です。ただ、小判の写真で、販売用のアルバムという雰囲気ではありません。少なくとも典型的な外国人向け「お土産アルバム」の体裁ではない。

●中島写真館の作品・その2
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この印刷物、大きさが55×38cmとデカく、スキャンできない。
これは中島寛道の息子(養子?)である中島湊の作品。モノは、大正11年の大阪毎日新聞に付録のコロタイプ印刷。絵柄は、雲仙温泉の新湯地区。余談ですが、この写真の年代判定には、思いっきり迷いましたよ・・・迷ったというか、騙されたというべきか ^_^;)。これについては、いつか詳しく書きたい。

●中島写真館の作品・その3
こちらで紹介した中島写真館発行の絵葉書。

私がこれまでに確認できた中島写真館の風景写真は、僅かに以上です。要するに中島写真館の写真の全容は全く謎です。どこかに、明治期の島原半島および雲仙の写真がわんさか眠っている気がするんですが・・・・・・。

 東京都写真美術館(監修)(2005)『日本の写真家―近代写真史を彩った人と伝記・作品集目録』, 日外アソシエーツ.
※※ 関善太郎(1912)『嶋原半嶋風光記 : 附・小浜温泉案内』 , 大黒屋.
長崎の気になる写真館・その1。
為政虎三とは、広島県の生まれ、横浜で玉村康三郎や鈴木真一に師事、明治25年もしくは27年に長崎で開業、九州指折りの写真館になった、また長崎市議会議員を務めた。単純に考えて、九州屈指の写真館が長崎の風景写真を残してないとは思えないのです。しかし、為政写真館の撮影と断定されている長崎の風景写真は1枚もありません。長崎大学古写真データベースの「撮影者から探す」(←クリックでデータベースに飛びます)の項には名前すらありません。

これはどういうことでしょうか? 為政写真館の写真はどこかに眠っているのでしょうか? それとも既知の写真の中に為政写真館撮影の物が紛れているのでしょうか???

為政広告
為政写真館、明治27年の広告。日本各地の写真を販売していたらしいことが分かります。

為政広告回転1899、5th
為政写真館、明治32年の広告。住所は本籠町の27番ですか。

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為政写真館、これは絵葉書。絵葉書の発行は、宛名面の体裁から明治の末から大正初期と思います。ショーウィンドウには、力士の写真が見えますね。隣の大名商館にNo.26とあるので、為政写真館がNo. 27なのでしょう。上の広告と一致します。この写真は、為政写真館に撮影に来た西洋人家族なんですかねぇ? しかし、モロに店の前ってことは、この写真を撮影したのが為政写真館と考えるのが妥当ではないですか??? もしかしたら、この写真は、為政写真館が撮影して、この家族に販売すると同時に、絵葉書にもして販売しちゃったってことですかね・・・?

本籠町の27番ってどの辺だろう? 明治期の地図で見てみましょう。
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この地図は、明治43年に軍の検閲を受けてますので、その頃の長崎市内の地図。ちなみにこの地図、デカくてスキャンできない。写真に撮ろうにも折り目部分が浮き上がってうまくない。巨大無反射ガラスでもあれば良いんだけど・・・。何か、うまい電子化方法は無いだろうか?

都合の良い事に、ちゃんと為政写真館と大名商会の位置が図示されています。
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分かりますかね? 17は県庁です、今も同じ場所です。出島は巨大化していますが、かろうじて島らしい形態を保っています。また新地の中華街もまだ三方を水路に囲まれ、かろうじて埋立地の名残をとどめています。で、Tが為政写真館、Dが大名商会。

さらにこの地図、広告も掲載されていまして、為政写真館の広告もありました。
為政
為政写真館、明治43年の広告。やっぱり、スタジオ撮影と同時に、手広く写真の販売をしていたことが伺えます。
余談ですが、一番下の行、これって・・・・・・アマチュアの撮影したネガを現像・焼付してたってことですよね?

さて、為政写真館のカタログの全容が明らかになる、なんて日は来るんでしょうか???  っていうか、長崎の郷土史のためには、誰かが調べるべきだと思うよ、ここは・・・。

最後に、この為政写真館、つまり本籠町の27番、今ではこんな感じですね。

長崎市、意外にも道は細い路地に至るまで、明治の末からほとんど変わってないみたいですね。

 東京都写真美術館(監修)(2005)『日本の写真家―近代写真史を彩った人と伝記・作品集目録』, 日外アソシエーツ.
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今や、1歳児も立派にパソコンが操作できるようになりました (ウソです)。

さて、右スピーカの上にちょろっと見えてますが・・・
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デジタルアンプ。Lepaiというブランドの LP-2020Aというモデル。購入価格は確か2,980円とかだったと思います。もちろん中国製。これがまぁ、実に音が良かったのです。一時期、マニアの間で大いにもてはやされました。何十万円もするアンプに劣らない音質、なんて書かれているネット上の記事もありますね。オーディオの価格破壊なんて言われ方もしました。確かにそうだったと思いますね。僅か3,000円でこの音が出るというのは、画期的でした。まぁ、デジタルアンプというのは、心臓部のICチップによって基本性能が決まっちゃうんでしょうね。この製品は、Tripathという会社のTA2020というチップを使っています。

しかし、この製品、日本であんまり売れたんで、粗悪な類似品が出回ってかなり混乱しました。何せ中国製。ブランド名はもちろん製品のパッケージまでそっくりな品が出回って、アマゾン等ではどれが本物か分からない、注文しても本物が来るのか?偽物が来るのか?分からない、てな状態になりました。

その後、チップを作っていたTripathという会社が倒産、TA2020チップの市場在庫が尽きて、この製品もおしまいとなりました。(と思ってたんだけど、今でもアマゾンとかで売られてるね。中身はホントにTA2020なのかなぁ・・・。)

今にして思えば、この製品やTA2020チップが特に優秀で音が良いというわけではなく、今ではもっと良い製品がいくらでもあるのですが、やはり音の良い中国製デジタルアンプ(中華デジアン)のはしりで、何より価格が安かったのでインパクトが大きかったですね。今じゃ、中華デジアンとはいえ、3,000円ではなかなか買えないしね。

しかし、コイツも今や不要となりつつあります。なぜなら・・・↓
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DigiFi Crafts USB DAC内蔵デジタルパワーアンプ DF13A。アマゾンで購入、2,868円。この小ささよ。

コレ・・・十分、音良いぞ・・・。コレは、デジタルアンプに加えて、DACを内蔵しています。しかもバスパワー。つまり、電源が要らない。

・・・・・・Lepaiの LP-2020Aは、お払い箱だっ! PCにつなぐのに、電源ケーブルが要らないってのは、大きいと思うよ。

これを更に突き詰めると、JBLのPebblesとかになっちゃうんだろうけど、やっぱ箱は大事だよ、うん。DF13A、しばらく聞いてみよう。

で、これを書いている間に、酔っぱらいつつ、上写真のP800Kを久しぶりにFE83Enに替えたんだけど・・・全然音違う!!! やっぱ、FE83En良い!!! 丸っきり違うじゃん! 高音も低音も、何より中域帯のリアル感が丸っきり違うよ。FE83En→P800Kに替えた時は、何か元気が無い音だな? くらいにしか思ってなかったんだけど。・・・・・・となると、FE83-Solを買ってみるか・・・? 今ならまだ買えるよな?
この辺で一旦、長崎の「お土産写真」(=横浜写真)のキャプション別シリーズ一覧を作ってみましょう。過去にこのブログで紹介したエントリーへのリンクも付けます (それぞれのエントリーでは明記しませんでしたが、リンク先の現物はいずれも筆者の個人蔵です)。

※スタジオの特定は、Terry Bennett(2006)『Old Japanese Photographs: Collectors' Data Guide』、Bernard Quaritch.(こちらで紹介した本です)を参考にしました。この本におけるスタジオの分類が完全でないことは、著者も指摘しています。しかしながら、今のところ、「お土産写真」のスタジオ別分類については、この文献が一番詳しいと思いますので、現時点ではこの文献に従いたいと思います。
※あんまりキャプションの細かい所にこだわり過ぎると、全体像を見失う恐れもあるような気がします。しかし、今のところ長崎の「お土産写真」について、キャプションにこだわった解説が少ないと思うので、今回はキャプションにこだわってみました。
※以下は、あくまでも私が過去1年間で調べた範囲です。私はまだ長崎大学古写真データベースに収録の写真全点すら見切れていません。以下の記述は今後修正される可能性が(大いに)あります。

<Aシリーズ>
A 178 OBAMA AT NAGASAKI.
A 179 HOT SPRING OBAMA AT NAGASAKI.
A 203 SHIOMIZAKI OF MOGI AT NAGASAKI. 
 *全部大文字、最後にピリオド有

<Bシリーズ>
B 227 MOGI ROAD FROM NAGASAKI
 *全部大文字、最後にピリオド無

<イタリックGシリーズ>
G 50. BUND, NAGASAKI.
 *全部大文字(イタリック)、数字の後にピリオド有、最後にピリオド有

<ゴシックGシリーズ>
G81. SHINTO-TEMPLE AT NAGASAKI.
 *全部大文字、数字の後にピリオド有、最後にピリオド有

<Hシリーズ>
H13. SHIOMISAKI, MOGI.
H14. SHIOMISAKI, MOGI.
 *全部大文字(イタリック)、数字の後にピリオド有、単語の間にはカンマ、最後にピリオド有
 *長崎のH14は、長崎大学古写真データベースにH14 NAGASAKI.(←クリックでデータベースに飛びます)というのが登録されています。長崎のHには、複数のシリーズがあるのかもしれません。

<Jシリーズ>
J63. Tea-house at suwa park.
 *本当に“シリーズ”と言えるほどの枚数がまとまっているのか?イマイチ不明

<Noシリーズ> (玉村康三郎スタジオ)
No. 212. Nagasaki, Bund.
 *頭に「No」有、数字の後にピリオド有、単語は頭だけ大文字、最後にピリオド有

<200番台シリーズ> (江南信國スタジオ)
249 NAMINOSIRA
 *全部大文字、カンマやピリオドは無
 *ひらがなの“し”を“SI”と表記

<数字がキャプションの後の200番台シリーズ> (江南信國スタジオ)
NAKASIMA TEA HOUSE 226
 *個人的にはちょっと疑問ですが、今のところはOJPに従いましょう。
 *やっぱり、ひらがなの“し”を“SI”と表記

<500番台シリーズ>
●長崎市教育委員会編(1997)『長崎古写真集-居留地編-』、長崎市教育委員会 には、500番台の長崎の写真が3枚収録されています(いずれも黒地白抜き文字)。これらのうち写真番号32と39は、OJPによると玉村康三郎スタジオの作品のようです。同じくOJPによると写真番号19は、玉村康三郎スタジオではありません。
●長崎大学古写真データベースには、黒地ではない白抜き文字の500番台が何枚か収録されています(目録番号:3938、4027、4028、4030など)。これらは、スティルフリードの作品と言われています。
●小山騰(2005)『ケンブリッジ大学秘蔵明治古写真―マーケーザ号の日本旅行』、平凡社. には、臼井秀三郎が撮影した長崎の500番台(白抜き数字+ピリオドのみ、キャプションは無し)が何枚か収録されています。

<600番台シリーズ>
690.
 *そんな“シリーズ”は無い可能性が大な気がしますが ^_^;) 、とりあえず。

<700番台シリーズ>
789 TAKABOKO NAGASAKI.
*OJPには、700番台が長崎の写真に割り当てられているスタジオはありません。しかし、長崎大学古写真データベースにも700番台の長崎の写真は何枚かあります(例えば、目録番号2871、1768、1769など)。長崎の700番台シリーズは、「ある」と考えるべきと思います。

<800番台シリーズ>
841 Amida Bridge, Nagasaki.
 *単語の頭だけ大文字、数字の後にピリオド無、最後にピリオド有
 *本当に“シリーズ”と言えるほどの枚数がまとまっているのか?イマイチ不明
 *鹿島清兵衛スタジオかもしれない

<1100番台シリーズ> (江崎礼二スタジオ)
1148 BAMBOO GROVE AT MOGI ROAD
 *全部大文字、カンマやピリオドは無

<1300~1400番台シリーズ> (日下部金兵衛スタジオ)
1401. PAPENBERG NAGASAKI.
 *金兵衛スタジオは、カタログが残っており、1300~1400番台に長崎の写真がある程度まとまっています。

<数字とキャプションが分離シリーズ>
12. / BUND, NAGASAKI. (彩色版)
12. / BUND, NAGASAKI. (未彩色版)
13. / BUND, NAGASAKI.
32. / CHERRY BLOSSOM OSUWA PARK.
79. / SHIWOMI-SAKI, MOGI.
 *数字は、黒地白抜文字のキャプションテープの外、数字の後にピリオド有、全部大文字、単語の間にはカンマ、最後にピリオド有

<数字だけシリーズ>
690. (再掲)
●小山騰(2005)『ケンブリッジ大学秘蔵明治古写真―マーケーザ号の日本旅行』、平凡社. には、臼井秀三郎が撮影した長崎の500番台(白抜き数字+ピリオドのみ、キャプションは無し)が何枚か収録されています。(再掲)

<数字無しシリーズ>
ROAD TO MOGI, BAMBOO GARDEN.
ROAD TO MOGI, (TAGAMI).
 *全部大文字、単語の間にはカンマ、最後にピリオド有

<キャプション無しシリーズ>
[桃渓橋]

<キャプション無しシリーズ(小判)>
[小浜温泉]
 *これは、違法コピー(?)の可能性有

長崎のお土産写真のキャプション別整理って、簡単にできると思ってたんだけど、意外と大変そうですね・・・・・・・・・ -_-;)
※明らかに「シリーズ」を形成している長崎の「Aシリーズ」や「Bシリーズ」にしても、連番から想定される全点が発見されているわけではありません。「Gシリーズ」や「Hシリーズ」になると、発見されている枚数の方がかなり少ない。「Jシリーズ」や「700番台」、「800番台」は、全容が全く不明です。これらから想像するに、これまでに明らかになっている長崎のお土産写真は、全体のごく一部という可能性があります。つまり、まだ知られていない、世に出ていない長崎のお土産写真の方が、既知の物より多いのではないか?という気がします。
※明治期のお土産写真は、外国人旅行者向けの商品、もしくは輸出産品でした。よって、国内にはあまり残っていません。先ずは、世界中の図書館や博物館、美術館に収蔵されている長崎のお土産写真を集大成することが望まれます。その上で、更なる「発掘」が望まれます。誰か・・・やりませんか!?
k068 13 BUND NAGASAKI
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モノは、鶏卵紙プリントではなく、それをコロタイプコピーした絵葉書。鶏卵紙プリントをコピーした絵葉書というのは、私製絵葉書の発行が認められた明治33年から明治の末までくらいに多く発行されたようです。画質は鶏卵紙プリントとは比較にならなので、画像資料としての価値はほぼありませんが、「こういう鶏卵紙プリントがあったらし」いという情報源にはなります。

さて、添付のキャプションは、『BUND, NAGASAKI.』。まいったなぁ・・・・『BUND, NAGASAKI.』かぁ・・・。『BUND, NAGASAKI.』は、過去に取り上げています。
 12. / BUND, NAGASAKI. (彩色版)
 12. / BUND, NAGASAKI. (未彩色版)
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おんなじキャプションじゃないですか・・・。しかも書体もそっくり。あっ!?じゃ数字は???

k068 13 BUND NAGASAKIed
ああっ!、あたっ! 「13」 だよ 「13」!!!不吉な数字だけど、心霊写真じゃないよな? 実はこの写真、もっと画質の良い鶏卵紙プリントをネット上で確認しています。ちゃんと「13」があるんです。

というわけでこの写真は、『13. / BUND, NAGASAKI.』として、長崎の「数字とキャプションが分離シリーズ」に分類しましょう。そっか・・・「12」、「13」の連番で同じキャプションか・・・・・・しかも、書体も似てると。ってことは、長崎の「数字とキャプションが分離シリーズ」という一連のシリーズがあるのかもね・・・。

あ、絵柄は、「12. / BUND, NAGASAKI.」とは反対方向から、つまり松ヶ枝橋側から大浦バンドを眺めています。一番右に見えている建物が大浦10番、この画面のすぐ右側に松ヶ枝橋が架かっています。
今、私が気になっているのは、長崎の「数字とキャプションが分離シリーズ」です。
過去にこの2枚を上げました。
 32. / CHERRY BLOSSOM OSUWA PARK.
 79. / SHIWOMI-SAKI, MOGI.
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ついでに、過去に上げたこの2枚↓
 12. / BUND, NAGASAKI. (彩色版)
 12. / BUND, NAGASAKI. (未彩色版)
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これら2枚は、以前は長崎の「数字無しシリーズ」に分類したんですが、よく見たら数字がありました!
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これは、未彩色版の右下の拡大です。どう見ても「12」です。以前は、これを見落としてました。彩色版の方は、過去にアップしたサイズの写真では見えにくいですが、高解像度スキャンを拡大して見たらちゃんと入ってます。というわけで、この写真の分類は、「数字とキャプションが分離シリーズ」に変更です。

とは言え、本当に「数字とキャプションが分離シリーズ」という一連のシリーズがあるのか否か? は良く分かりません。この形式、つまり黒地白抜き文字のキャプションテープの外に白抜き数字がある、という形式は、さほど珍しくはありません。長崎大学古写真データベースにもちらほら見られます。しかし、黒地白抜き文字のキャプションテープと白抜き数字を入れたのが同じ写真館とは限りません。A写真館が、白抜き数字だけが入ったネガをB写真館に供給し、B写真館が黒地白抜き文字のキャプションテープを貼って販売した、という可能性も十分考えられます。また、黒地白抜き文字と白抜き数字の書体が複数あることを考えると、一連の物ではなく、複数のシリーズが混在している可能性もあります。

このシリーズ(?)については、情報を積み上げていくしかないですね。

そんな事を思いながら、この写真。
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 ↑ クリックで拡大。
非常に印象的な写真ですよね。明治中期には、こんな小さな山の上まで段にして、田畑を作ってたんですよ。オドロキじゃないですか? この時代は、食料確保・増産というのが、社会の至上命題だったんでしょうねぇ。それに赤ちゃんをおんぶした女の子。大変印象に残る写真です。ちなみに現在の場所との比較は、こちらの資料(←クリックで長崎市作成のPDFファイルに飛びます)にあります。

キャプションは、『ROAD TO MOGI, (TAGAMI).』。つまり長崎の「長崎の数字無しシリーズ」です。・・・・・・・・・ですかね?
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ん!? 「2」?

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「2」って書いてないか???

「2」のしっぽの部分は、葉っぱかとも思えますが、「?」みたいな部分は、葉っぱじゃないよなぁ? これって、ネガのキズ???

もはや心霊写真の域に近づきつつあるな・・・。あんまり細かいことにこだわるのはヤメよう。ということで、この写真は、長崎の「数字無しシリーズ」に分類しておこうと思います ^_^;)